ハッピーエンドホリック

好き勝手に幸せを求め続けてたいよね

思い出はいつもきれいだし、僕たちはみんな別々の人間だ

shiba710.hateblo.jp

 

とりあえずリンクをぶちこんでから始めるんだけど、愛があればなんでも許されてた時代とかみんなが画一的でないといけないようなのはもう終わったんだなって。

 

たとえば、星野仙一さんが亡くなって、あの人の鉄拳制裁とか批判する方向で語る人ってあんまりいないと思うんですけど、あれと同じことが今起こったらやっぱり問題だと思うんですよ。相撲界だって今までしつけと称してがんがん殴ってきたけど、それがパッと表に出てきたら批判だらけなわけ。

 

ある種の生存バイアスみたいなのもあるけど、怒鳴られて叩かれてそれで優勝してきた選手たちが監督を批判するなんてことはできないんですよ。プロだろうがアマチュアだろうが高校生だろうが。その当時どんなに納得できなくても、自分より立場の上の人に反発すること自体が難しいし、ずいぶんと時間が経った後に振り返って成功体験が残ったら、過去のあれこれを否定するのは多分とても難しい。

 

だって、考えてみてくださいよ。「僕らは確かに優勝したけど、あのやり方は間違ってたし、あのころの僕らはただ無駄なことをしていただけだった」とか言われて納得できる人が何人いるんですかね。例えば、「1日10時間勉強したら東大に合格したけど、別にあんなに勉強する必要なかった」って言われても、きっと「あー1日10時間勉強しないと東大には受からないんだ」って感想になると思うんですよ。

 

もし批判する人がいるとしたら、多分その監督の下でうまくいかなかった人なんだろうけど、でもそういうのって単純に失敗した人として切り捨てられがちなのかなって。でもだからこそ、成功から学ぶことは少ない、人は失敗から学ぶ、というかそういう成功できなかった人たちの言葉にも大事なことがあるんじゃないかと。

 

成功者の体験談に価値があるのは数え切れない失敗が前提にあるからで、もし成功しかしてない人がいたら、その体験談から学ぶのはあまりに難しいというか不可能だと思っていて。「イチローが毎年フォームを変える」っていうのが本当かどうかは知らないけど、後追いだけじゃ必ずしも成功しないのはきっと間違いないかなって。

 

 

で、あとなんだっけ。

なんか多様性うんぬんの話も一応しようと考えていた気がする。

 

そうそう、「世界に一つだけの花」って何年か知ってます?2002年らしいんですけど、あれだけひとりひとりの違いを讃える歌が流行ってもう15年以上経ったわけですよ。流石にさ、他人との違いをおもしろおかしくいじるのはどうかって認識がもうみんなにあるんじゃないかって思うんだけど。

 

デブをデブと言えば笑いがおこる、なんてのはもう違うんですよ。ゲイとかオネエとかを出せば、それだけで笑えるみたいなのは今の時代にはないんですよ。そういうなかで10年20年と同じ形でやりつづけて来た一部のバラエティ番組は、もう致命的に今の時代に合わなくなっていると思うわけで。だから、こうやって燃えたり終わったりするのかなと。

 

普通の人と違う人は確かに面白い。それは僕らにとって知らない世界で、新鮮な衝撃を与えてくれるからだ。ただ、それを自分たちと違うから揶揄するように笑うのはおかしくて、あくまでそれ自体を認めたうえで楽しむという流れが必要なんだと思う。僕がツイッターにはびこるご意見番的な風俗嬢とかがあんまり好きでないのは、彼女らが生きている世界は確かに面白いけど、ひたすら客をけなすことで成り立っているからだ。もちろん、客側に問題があることも多々あるのだろうけど、なんか童貞いじりと似たような構図に見えて仕方がなくて、うまくいかないのに歓心を買おうと必死になっているのが見てて辛くなってくるのもあるかもしれない。

 

話が違う方向にいきそうだから終わらせるけど、僕は人と違う道を行く人を応援しています。幸せの形はどうやらとても似ているらしいけれど、だからこそ、人と違う幸せを追いかける人はとても楽しそうで、見てて飽きないんですよね。

 

 

他人との違いを許容しましょう。共通点が多いというのは、簡単に分かり合えるということでとても便利だけど、共通点が少ないほうが手間はかかっても、分かり合えたときは多分ずっと楽しいよ。個性を求めながら、面接にスーツを求める企業って変なんですよ。いろんな人と知り合いたいって言いながら、大卒じゃないと話が通じないとかいう人は変なんですよ。気持ちはどっちも分かるけどね。