ハッピーエンドホリック

好き勝手に幸せを求め続けてたいよね

〆切の存在

ふと、メールボックスを眺めていたら、はてなからメールが来ていましてですね、なんかあったかなと思ったら、「お前さん、もう一ヶ月もブログ書いてないからサボってないで早くブログ書け」と言われたわけでね。うん。まあ、とりとめもなくだらだらした文章を書こうかなと。

 

〆切について

 

そう、〆切ですよ、〆切。

 

僕は普段、文章を書いたり、誰かに話を聞いたり、誰かに電話したり、誰かに文章を書いてもらったり、そんな感じの仕事をしています。

 

で、この仕事は何月何日に紙の冊子になって配られるよ、という前提があるので、もちろんのこと〆切というものがあります。〆切を守らないと色々大変なことが起こるので、余程の力がないと〆切をずらすという魔法は使えないんですね。

 

そうなると、本当に守れるか怪しいスケジュールを立てながら、この文章はこの日までに書けてないとまずいかな、とふらふら考えながら仕事をすることになるわけで。このね、このぼんやりとした考えが意外と大事なんですよね、文章を書くときには。

 

僕はスケジュールに余裕を持って、〆切の一週間前には文章が書けて、誤字とか内容の確認も出来て、万全です!問題ないです!なんてことは全然無理なんですけど、少なくとも文章が書けなくて真っ白のページが出来てしまうのがまずいことくらいは一応分かっているわけで。だから、〆切前にあーだこーだ言いながらも60点から90点くらいの文章をなんとか仕上げたりしてやり過ごすわけなんですよ。

 

しかし、まあブログには〆切がない。

 

寝不足だったり、鬱っぽかったり、体調があんまりよくなかったりしても、〆切があるとなんとか文章を仕上げよう、とりあえず形を整えて出そう、という意識が働くけれど、ブログとなるとちょっと気分がすぐれないだけで、今日は書かなくていいかな、週末に時間があったら書けばいいや、別に来週でもいいしなってな話になる。

 

もちろん、それが悪いなんてことは何もなくて、好きなときに好きなことを書くのがブログの良さだとは思うんだけど、定期的に何かをアウトプットするのが大事なんだよなという考えはうっすらとあって、あと、単純にそれなりの頻度で定期的に更新する方が読者は定着するよねとかいうのもある。

 

そんなわけで、一週間に2回くらい更新できたらいいな、とか思っていたわりに一ヶ月に1回すら更新するか怪しいブログだけど、なんとか書き続けられたらいいな。

 

ここのところメンタルはあんまりよくないけれど、まあ、積極的な死を選ぶほどではないので、死なない程度に頑張ります。明日から三連休だしね。

 

 

SORA NO KANADE

8/12のグラブルオーケストラ昼公演に行きました。

 

オーケストラの公演をまともに聴くなんていつ以来かもはや覚えていないレベルなんですが、やはりいいものですね。正直ここ最近はグラブルに対するモチベが非常に低かったので楽しめるか不安なところもあったけれど、そんなこと関係ないくらい演奏は最高に良かった。

 

まずはセットリストから。

 

メインテーマ

大星晶獣との戦い

フレイメル島〜太古の工廠〜

ルーマシー群島〜神秘の森〜

星は空高く

始まりの風

天に散りし覇者との邂逅

シュヴァリエ・マグナ

遥かなる旅路、天翔ける戦線

歴史の分水嶺

悲壮

リヴァイアサン・マグナ

人間との戦い

アウギュステ列島〜白沫の瀑布〜

 

アンコールがバトルのメドレーとロボミかな。アンコールでのやりとりはなんかお約束かなって感じで個人的にはすごく好きです。一度退出してから扉のところにちょこんっって感じで立って、小走りで指揮台に戻ってくる栗田さんがとてもいい。

 

それなりに長くグラブルやってるにも関わらず、ちゃんと音出した状態でプレイしていることって意外と少なくて、こうやってフルで聴くと驚きもあるし、ぞくぞくする。特にシュヴァリエ・マグナは聞いた回数の多さと剣の落ちなさが一瞬で思い出されるのでいろんな意味で鳥肌ものです。ほとんどスラ爆をしてないランク145なのに剣が1本しか落ちないのわりと病みますからね。

 

星は空高くと人間との戦いは追加公演で初お目見えの2曲。タイトルだとなんのことかわからないと思うけど、アーカーシャやグランデに使われてる曲と黒騎士の曲です。グランデはわりと面倒というか時間かかることも多いので結構記憶に残ってますね。人間との戦いは曲自体より、植松さんの解説で「人間との戦いってタイトルをつけるなんて、サイゲームスさんきっと疲れてるんでしょうね」ってセリフがやたら印象深いです。どうやら曲のタイトルは全てサイゲームスの人がつけてるらしいです。「成田さんの曲はいつもタイトルがかっこよくてずるい」と植松さんが愚痴ってたのが面白かったです。ちなみに成田さんは「3時に目が覚めて眠れなかったので、朝まで共闘をやっていた」らしくなかなかでした。

 

あと、始まりの風とアウギュステ列島〜白沫の瀑布〜はかなり癒し度合いが高いですね。特にアウギュステはなんか聴いててすごい落ち着くというか。夏の夜に海辺で焚き火をしながら静かに話している気分になれます。完全なイメージですが。全部終わった後に余韻を感じながらのんびりするには間違いなく向いてます。

 

全部の曲について書くのはかなり厳しいというか、もう何回か聴かないとうまく書けないのでまあこれくらいで。チケットと物販で3万くらい消えましたが、なかなかいい体験でした。

 

あと、エルーンのお姉さんが可愛かったです。背中がっつり出てていいよね。ヘタレたので一緒に写真とってなくて勿体なかった気もします。本当に最高。

 

とりあえずCD何枚か買ったんで、のんびり聴きながら古戦場を迎えたいと思います。夜公演は古戦場の曲を演奏してたみたいなんですが、それも気になるところ。ただ、あれをずっと聴いてるのはちょっと辛そう。

 

そんなこんなで、SORA NO  KANADE 東京追加公演でした。

 

グラブルが12年続かないと自分の干支である馬のキャラが出ないんだけど、それまで続いてるかな。まあ、続いている限りはまったりやると思います。

君を尽きるまで愛して死にたいよ、が突き刺さるメンヘラ

ノーザンクロス」が好きなんですよ。

マクロスFのアニメを全話見てるわけではないのだけれど。

 

好きな理由の一つはシェリルが好きってことですが、なんていうのかな、「シェリル」って個人的にはひとりのキャラを超えた記号みたいなところがあって。

 

それは「ハルヒ」とか「タマ姉」とか「レイ」とかと一緒で作品とは関係なしにキャラ単体がずっと歩き続けるような力を持っているんですね。性格、見た目、雰囲気、喋り方、その他諸々の属性とかをひっくるめて、ひとつの概念のようなものになったキャラたち。他のキャラを説明する時に例えとしてあげられるような。

 

ろくにアニメ見てないのに何だそれとかシェリルの原型みたいなキャラもいるからとか言われるとまあすみませんとしか言いようがないんだけれど、まあそれは置いといて。

 

 

 

君を尽きるまで愛して死にたいよ

 

 

 

こういう歌詞に弱いんですよ、本当に。好きになった相手とすぐに一生を誓うとかもそうだけど、やっぱり永遠性ってのがすごいクるんですよね。

 

僕らはいつでも運命の人を探していて、運命は絶対的なものだから、必ず出会うし、必ず添い遂げるし、初めての相手が最後の相手くらいのことは常に考えてる。現実はちっともそんなことないけれど。

 

だからこそ、「君を(命が)尽きるまで愛して死にたいよ」なんて言われたら、もうそりゃ一瞬で落ちるわけですよ。相手は銀河の妖精、しかも、おそらく初めての本気の恋。銀河系のアイドルが、自分一人に残りの人生全てを捧げて愛しますっていう、文句なしのシチュエーション。

 

独占欲満たされまくりじゃないですか。

自尊心が海底より低くても十分に幸せになれますよね。

 

それに、ここまで感情の純度を高めると、もはや恋愛が成就するかどうかは、必ずしも重要じゃないんですよね。想うこと想われること自体がある種の奇跡で、それだけで拠り所として成立してしまう。たとえ叶わないと知ってても、その人への想いが自分を維持することができる。そういうものになるんじゃないかなって。

 

たまらないよね、本当に。

人生で一度でも良いからそんな恋愛できたら、もう少し前向きに生きられると思う。

 

 

それでも僕らはヤってない

 

 

誰でもいいだなんてそんなことはないよ

 

最初に言うと、この作品はめちゃくちゃ人を選ぶというか好みが別れると思うんですよね。僕はいわゆる拗らせた側の人間なんで、ものすごくよくわかるんですけれど、読んで「気持ち悪い」「理解できない」ってなる人は結構いると思います。でもまあ、こういう人もそれなりにいるんだよってことくらいはわかって欲しいかな、と個人的には願うところもありますね。

 

 

ところで、童貞処女についてあなたはどんな印象を持ちますか?

 

別にどうでもいいって人もいれば、今すぐ捨てたいとか気持ち悪くて引くとか色々あるんじゃないかなと思います。

 

僕自身は今はそこまで気にしていない方だと思います。童貞にコンプレックスを持った時期も結構あったし、処女信仰は今でも残っている部分もあるけど、クソビッチ死ねとかヤリチン死ねとかは大して思ってないです。

 

ただ、世の中全体として童貞処女にあんまりいいイメージがない人の方が多いような気はしています。特に年齢を重ねれば重ねるほど、マイナス要素として認識されてる部分は否定できないような。15で童貞処女なら微笑ましいけど、30で童貞処女だと首を傾げたり眉をひそめたりする人、きっといますよね。

 

ここに関しては、もう社会がそういう考えでできていると捉えるしかないんだと思います。結婚することが当たり前だと思われていたから、行き遅れなんて言葉が生まれるように、現在の価値観がそういう風になっているのです。結婚市場で見かける賞味期限なんて言葉はあまり好きではないですが、童貞処女も同じなんですよ。18の処女は高く売れても、28の処女は高く売れない。こんなこと言うと色んなところから叩かれそうですが、そうみんな認識してるのは事実のはずです。

 

で、ここまでは外から見た話はわけですけど、これ当事者はどうなると思います?

 

童貞処女のままで年齢を重ねて、それでいてそれがマイナスであるという価値観に浸り続けた人たち。

 

それはね、もう拗らせても仕方ないんじゃないかって思うんですよ。だって、常に自分を否定する価値観の中で生きていくのって想像以上につらいですよ。もちろん、そうなるのは色々な理由があります。実際、セックスも恋愛もタイミング次第のものじゃないですか。みんなが15歳になったら恋愛して、18歳になったらセックスして、20歳になったら結婚するなんてそうなわけないですよ。個々人でタイミングは全然違うわけですよ。もちろん、本人の考え方も大きいけれど、じゃあそれ全部本人が悪いのかっていう。25歳になってセックスどころかまともに恋愛すらしたことない、そのことはどれだけ非難されるべきことなんでしょうか。

 

叶わなかった初恋を引きずって恋愛しないのが悪いとか、結婚するまでセックスしないのが悪いとかそういうの言うつもりはないです。個人の考え方なので。今の僕はそれがあまりいい結果を生まないような気がするという認識は一応ありますが、だからと言って本人の選択を否定するほどでもないです。ただまあ、自分の経験上では拗らせすぎると反動が大きいので、その反動は避けた方がいいと思います。理想を追い求めすぎると醜い現実に耐えられないんですよね。

 

誰しも一度は経験するんですよ。恋に恋する時期とか、幸せすぎて自分を信じられないとか、自分に自信を無くして相手を遠ざけようとするとか。そういうのを早くに経験した人にとってはひどく当たり前で、なんてことないかのように思えるかもしれないけど、自分だってもがいた時期があるはずなんですよ。それが他の人より少し遅かっただけの人を否定するのはやめませんか?

 

「どうせ好きな人を傷つけてしまうくらいなら自分から離れた方がいい」なんて、今のあなたにとっては滑稽なセリフかもしれないけれど、その人にとっては紛れもない現実で必死に考えた結果だってこと、少しは考えてみてもいいのかなって。

 

傷ついていない自分を演じるのが上手くなっても、そこに間違いなく傷ついて自分は存在するのだから、隠すことなく傷ついた自分をさらけ出している人に優しくするのはそんなに難しくないことだと思うんですよ。

 

 

人はよく自分探しをするけれど、本当の自分なんてどこにもいない

自己アピールが苦手だ。

 

面接や自己紹介のたびに思うのは、僕は自分自身を説明しているのではなくて、ただ、毎回相手に合わせて自分を作り上げているのではないかということ。

 

就職面接で「御社が第一志望です」って何度も口にした人は少なくないはずだ。新しい恋人ができるたびに「君が一番だよ」と言う人もきっといるだろう。

 

もちろんそこまで極端じゃなくてもいい。例えば、カラオケで相手が知ってそうな曲を探りながら、歌う曲選びをしたことはないだろうか。少なくとも僕は相手がアニソンを聴きそうだな、と思った時しかアニソンを歌わない。多分、そういう選択はたくさんあると思う。

 

初対面に近ければ近いほど、僕は自分をさらけ出すことに臆病になる。相手がどんな人かはわからない。面白い人で話がすごい弾むかもしれないし、もしかしたら相性が悪くて全然気に入らないかもしれない。でも、どんな人であっても、最初のコミュニケーションは共感を作り出すところから始まるんじゃないかな。

 

共通点を探って、あれいいよね、これいいよねって言い合って、なんだか分かり合えた気になって。そこから少しずつ違いを明らかにしていくような。

 

でも、そうやって共感を作り出すための自分は、本当の自分なのだろうか。確かにそれは自分の一部かもしれないけれど、他の部分を切り捨てて隠してしまった自分は、本当の自分と言っていいのだろうか。

 

たくさんの場で、たくさんの自分を作り上げていくと、いつしか偽物の自分ばかり演じているような気分になってしまう。本当の自分はこんなんじゃない、そうやって自分の現状に不満ばかりが溜まっていく。

 

さて、本当の自分はどこだろう。そう思ったときに、どこにも本当の自分がいないことに気がついてしまった。断片をいくら集めても、元の姿には戻せない。100%の自分を表現できる場はどこにもなくて、もはや自分ですら原型を見失った。

 

鏡を見つめながら、僕は言う。

 

「ねえ、本当の僕はどこにあるのだろうか」

 

手の届かない本当の自分を探して、今日もまた、自分の姿を探している。

 

AV女優とAV男優が同居する話。

 

もうタイトルと表紙だけで買う価値ありません?

 

短編集なので、他にも自意識過剰な女の子とか兄が大好きな妹とかの話もあるんですけど、やっぱり表題が一番かなって思います。

 

 

 

「カメラ回ってない処で金にならないセックスしてどーすんの」ってセリフ、もちろん僕は一生かかっても吐けないセリフなんですけど、そういうの考えたことある人はきっとたくさんいると思うんです。

 

仕事は仕事っていう考えはどんなものにもあります。森博嗣なんかはわりとそちら側の人のはずで、仕事で本は書くけどそれ以外で書こうとは思わないし、そもそも本はあまり読まないとどこかで書いていたように思います。もちろん、すきなことを仕事にしたタイプの人は、仕事でもプライベートでも同じことをやってる人は多いです。イラストレーターなんかは仕事の息抜きに絵を描いてるし、雀荘のメンバーなんてのは休みの日にフリー行ったりセットしたりしてます。

 

とはいえ、セックスが好きでAV女優や風俗嬢になった人はおそらく少数でしょう。お金が欲しくてセックスが嫌いじゃない、ならまだしも、セックスが好きすぎてAV女優になったという話はあまり聞かないというか僕は知りません。そんな存在は多分、地雷認定されるようなしょうもないおっさんの頭の中にしかいないと思います。もしいたら教えてください。その人が仕事としてどんなセックスをするか気になります。

 

それを踏まえたうえで、セックスを仕事にした人でも、プライベートのセックスはあるんですよ。普段お金もらってセックスしてる側の人間が、お金を払ってでもしたいと思うセックスが。その対象が恋人なのかセフレなのか、それともまた違う存在なのかは置いとくとして。仕事じゃなくて、心の底から望んだセックスが。

 

で、やっとタイトルに戻ってくるわけですよ。

AV女優とAV男優が同居したら?

もしお互いを好きになってセックスするとしたら?

 

話としてはすごいシンプルなんですけど、シンプルだからこそ際立つものもあって。初めては特別じゃないですか、だから本当は綺麗な思い出にしたいんだけれど。

 

誰だって売り物にしたくない思い出はきっとあるはずなんだけど、僕自身は最高の恋愛があったとして、きっとそれを物語にして売ってしまうような気がして。

 

なんていうか、業が深いな、と思うのでした。

 

知らなかったものを知ることでしか、成長は出来ないんですよね。

 

 

 

AV女優とAV男優が同居する話。 (アイプロセレクション)
 

 

書くことと直すことと書き直すこと

最近気がついたことなんですけど、自分が書いた文章を直すのと他人が書いた文章を直すのって全然違うんですよね。

 

そんなのとっくの昔から知ってるよって言われるかもしれないけど、僕はこのことに全然気がつかなかったんですよ。他人の文章も自分の文章みたいに直せると思ってた。

 

ところがですね、やってみるとまったくもって別物なんですね。

 

自分の書いた文章って、どういう意図を持ってどういう道筋で書いたかが分かってるから、簡単に削れるんですよ。ここの部分は削っても流れが変わらないとか、ここは絶対に削らないとか、わりと楽に判断がつく。

 

でも、他人の文章ってそれが全然分からないんですよ。読んでみるとなんとなくこんな流れなんだな、で終わってしまう。ここ削っても良さそう、と思って削ってみるとなぜか読んだときにすごい違和感がある。ここなんか説明不足だなって思っても、何を足せばいいのかよく分からない、言葉にできない。

 

だから、他人の文章をさらさらと添削できる人はすごいなって本当に思うようになった。

 

自分の文章ですら、分かってても上手く書き直せないときは間違いなくあって、そんなんだから他人の文章は本当に苦労する。方向性だけでも、と思ってもその方向性すら見えないときがある。

 

考えを文章として表現することが、こんなにも難しいだなんてまったく知りもしなかったけど、それでもその考えてる時間が嫌いじゃないんだよなぁ。

 

物書きの業は本当に深い。