それでも僕らはヤってない
誰でもいいだなんてそんなことはないよ
最初に言うと、この作品はめちゃくちゃ人を選ぶというか好みが別れると思うんですよね。僕はいわゆる拗らせた側の人間なんで、ものすごくよくわかるんですけれど、読んで「気持ち悪い」「理解できない」ってなる人は結構いると思います。でもまあ、こういう人もそれなりにいるんだよってことくらいはわかって欲しいかな、と個人的には願うところもありますね。
ところで、童貞処女についてあなたはどんな印象を持ちますか?
別にどうでもいいって人もいれば、今すぐ捨てたいとか気持ち悪くて引くとか色々あるんじゃないかなと思います。
僕自身は今はそこまで気にしていない方だと思います。童貞にコンプレックスを持った時期も結構あったし、処女信仰は今でも残っている部分もあるけど、クソビッチ死ねとかヤリチン死ねとかは大して思ってないです。
ただ、世の中全体として童貞処女にあんまりいいイメージがない人の方が多いような気はしています。特に年齢を重ねれば重ねるほど、マイナス要素として認識されてる部分は否定できないような。15で童貞処女なら微笑ましいけど、30で童貞処女だと首を傾げたり眉をひそめたりする人、きっといますよね。
ここに関しては、もう社会がそういう考えでできていると捉えるしかないんだと思います。結婚することが当たり前だと思われていたから、行き遅れなんて言葉が生まれるように、現在の価値観がそういう風になっているのです。結婚市場で見かける賞味期限なんて言葉はあまり好きではないですが、童貞処女も同じなんですよ。18の処女は高く売れても、28の処女は高く売れない。こんなこと言うと色んなところから叩かれそうですが、そうみんな認識してるのは事実のはずです。
で、ここまでは外から見た話はわけですけど、これ当事者はどうなると思います?
童貞処女のままで年齢を重ねて、それでいてそれがマイナスであるという価値観に浸り続けた人たち。
それはね、もう拗らせても仕方ないんじゃないかって思うんですよ。だって、常に自分を否定する価値観の中で生きていくのって想像以上につらいですよ。もちろん、そうなるのは色々な理由があります。実際、セックスも恋愛もタイミング次第のものじゃないですか。みんなが15歳になったら恋愛して、18歳になったらセックスして、20歳になったら結婚するなんてそうなわけないですよ。個々人でタイミングは全然違うわけですよ。もちろん、本人の考え方も大きいけれど、じゃあそれ全部本人が悪いのかっていう。25歳になってセックスどころかまともに恋愛すらしたことない、そのことはどれだけ非難されるべきことなんでしょうか。
叶わなかった初恋を引きずって恋愛しないのが悪いとか、結婚するまでセックスしないのが悪いとかそういうの言うつもりはないです。個人の考え方なので。今の僕はそれがあまりいい結果を生まないような気がするという認識は一応ありますが、だからと言って本人の選択を否定するほどでもないです。ただまあ、自分の経験上では拗らせすぎると反動が大きいので、その反動は避けた方がいいと思います。理想を追い求めすぎると醜い現実に耐えられないんですよね。
誰しも一度は経験するんですよ。恋に恋する時期とか、幸せすぎて自分を信じられないとか、自分に自信を無くして相手を遠ざけようとするとか。そういうのを早くに経験した人にとってはひどく当たり前で、なんてことないかのように思えるかもしれないけど、自分だってもがいた時期があるはずなんですよ。それが他の人より少し遅かっただけの人を否定するのはやめませんか?
「どうせ好きな人を傷つけてしまうくらいなら自分から離れた方がいい」なんて、今のあなたにとっては滑稽なセリフかもしれないけれど、その人にとっては紛れもない現実で必死に考えた結果だってこと、少しは考えてみてもいいのかなって。
傷ついていない自分を演じるのが上手くなっても、そこに間違いなく傷ついて自分は存在するのだから、隠すことなく傷ついた自分をさらけ出している人に優しくするのはそんなに難しくないことだと思うんですよ。
人はよく自分探しをするけれど、本当の自分なんてどこにもいない
自己アピールが苦手だ。
面接や自己紹介のたびに思うのは、僕は自分自身を説明しているのではなくて、ただ、毎回相手に合わせて自分を作り上げているのではないかということ。
就職面接で「御社が第一志望です」って何度も口にした人は少なくないはずだ。新しい恋人ができるたびに「君が一番だよ」と言う人もきっといるだろう。
もちろんそこまで極端じゃなくてもいい。例えば、カラオケで相手が知ってそうな曲を探りながら、歌う曲選びをしたことはないだろうか。少なくとも僕は相手がアニソンを聴きそうだな、と思った時しかアニソンを歌わない。多分、そういう選択はたくさんあると思う。
初対面に近ければ近いほど、僕は自分をさらけ出すことに臆病になる。相手がどんな人かはわからない。面白い人で話がすごい弾むかもしれないし、もしかしたら相性が悪くて全然気に入らないかもしれない。でも、どんな人であっても、最初のコミュニケーションは共感を作り出すところから始まるんじゃないかな。
共通点を探って、あれいいよね、これいいよねって言い合って、なんだか分かり合えた気になって。そこから少しずつ違いを明らかにしていくような。
でも、そうやって共感を作り出すための自分は、本当の自分なのだろうか。確かにそれは自分の一部かもしれないけれど、他の部分を切り捨てて隠してしまった自分は、本当の自分と言っていいのだろうか。
たくさんの場で、たくさんの自分を作り上げていくと、いつしか偽物の自分ばかり演じているような気分になってしまう。本当の自分はこんなんじゃない、そうやって自分の現状に不満ばかりが溜まっていく。
さて、本当の自分はどこだろう。そう思ったときに、どこにも本当の自分がいないことに気がついてしまった。断片をいくら集めても、元の姿には戻せない。100%の自分を表現できる場はどこにもなくて、もはや自分ですら原型を見失った。
鏡を見つめながら、僕は言う。
「ねえ、本当の僕はどこにあるのだろうか」
手の届かない本当の自分を探して、今日もまた、自分の姿を探している。
AV女優とAV男優が同居する話。
もうタイトルと表紙だけで買う価値ありません?
短編集なので、他にも自意識過剰な女の子とか兄が大好きな妹とかの話もあるんですけど、やっぱり表題が一番かなって思います。
「カメラ回ってない処で金にならないセックスしてどーすんの」ってセリフ、もちろん僕は一生かかっても吐けないセリフなんですけど、そういうの考えたことある人はきっとたくさんいると思うんです。
仕事は仕事っていう考えはどんなものにもあります。森博嗣なんかはわりとそちら側の人のはずで、仕事で本は書くけどそれ以外で書こうとは思わないし、そもそも本はあまり読まないとどこかで書いていたように思います。もちろん、すきなことを仕事にしたタイプの人は、仕事でもプライベートでも同じことをやってる人は多いです。イラストレーターなんかは仕事の息抜きに絵を描いてるし、雀荘のメンバーなんてのは休みの日にフリー行ったりセットしたりしてます。
とはいえ、セックスが好きでAV女優や風俗嬢になった人はおそらく少数でしょう。お金が欲しくてセックスが嫌いじゃない、ならまだしも、セックスが好きすぎてAV女優になったという話はあまり聞かないというか僕は知りません。そんな存在は多分、地雷認定されるようなしょうもないおっさんの頭の中にしかいないと思います。もしいたら教えてください。その人が仕事としてどんなセックスをするか気になります。
それを踏まえたうえで、セックスを仕事にした人でも、プライベートのセックスはあるんですよ。普段お金もらってセックスしてる側の人間が、お金を払ってでもしたいと思うセックスが。その対象が恋人なのかセフレなのか、それともまた違う存在なのかは置いとくとして。仕事じゃなくて、心の底から望んだセックスが。
で、やっとタイトルに戻ってくるわけですよ。
AV女優とAV男優が同居したら?
もしお互いを好きになってセックスするとしたら?
話としてはすごいシンプルなんですけど、シンプルだからこそ際立つものもあって。初めては特別じゃないですか、だから本当は綺麗な思い出にしたいんだけれど。
誰だって売り物にしたくない思い出はきっとあるはずなんだけど、僕自身は最高の恋愛があったとして、きっとそれを物語にして売ってしまうような気がして。
なんていうか、業が深いな、と思うのでした。
知らなかったものを知ることでしか、成長は出来ないんですよね。
書くことと直すことと書き直すこと
最近気がついたことなんですけど、自分が書いた文章を直すのと他人が書いた文章を直すのって全然違うんですよね。
そんなのとっくの昔から知ってるよって言われるかもしれないけど、僕はこのことに全然気がつかなかったんですよ。他人の文章も自分の文章みたいに直せると思ってた。
ところがですね、やってみるとまったくもって別物なんですね。
自分の書いた文章って、どういう意図を持ってどういう道筋で書いたかが分かってるから、簡単に削れるんですよ。ここの部分は削っても流れが変わらないとか、ここは絶対に削らないとか、わりと楽に判断がつく。
でも、他人の文章ってそれが全然分からないんですよ。読んでみるとなんとなくこんな流れなんだな、で終わってしまう。ここ削っても良さそう、と思って削ってみるとなぜか読んだときにすごい違和感がある。ここなんか説明不足だなって思っても、何を足せばいいのかよく分からない、言葉にできない。
だから、他人の文章をさらさらと添削できる人はすごいなって本当に思うようになった。
自分の文章ですら、分かってても上手く書き直せないときは間違いなくあって、そんなんだから他人の文章は本当に苦労する。方向性だけでも、と思ってもその方向性すら見えないときがある。
考えを文章として表現することが、こんなにも難しいだなんてまったく知りもしなかったけど、それでもその考えてる時間が嫌いじゃないんだよなぁ。
物書きの業は本当に深い。
闇古戦場
お疲れ様でした。
予想通りボーダーは全体的に上がり、今回はいまいち走れなかったこともあって40000位にすら入れませんでした。
編成はこんな感じだったのですが、全体的に胡散臭いというか中途半端にもほどがありますね。瀕死になったときは減衰出てたので楽しかったです。
ちなみに終わった後に気がついたんですけど、+99の塊が1つ水に付いたままでしたね。これは明らかにもっと早く気がつくべきでした。
キャラはシスおらん、オーキスおらん、水ゾおらん、みたいな状況だったので、ゼタ、ナルメア、レディグレイをメインに回してました。サブからジャンヌが出てくるのがわりと火力落ちなくてそこそこ個人的には良かったかな。
次回光古戦場は完全なるお荷物なので、役に立ちませんごめんなさい。あと日程次第ではほぼ動かなくて死にます。
この写真見て違和感に気がついてください。まぁ要するに完全にサボってたって話です。
少しは頑張りたいですが、できれば土古戦場で会いましょう。
銀と金
籠絡の決め手は彼らがこう理解してほしいという『思い』のとおりに彼らを理解してやることだ
銀と金はあまりに名セリフが多すぎて選ぶのに迷いますね。全体的には金とギャンブルと悪人に関することがほとんどなんですけど、その中で上記のセリフは人間関係におけるかなり重要な言葉だと思います。
僕らはいつも自分の中に理想を持っていて、それを叶えられないことにコンプレックスを感じて、だからこそ認められたがっている。自分の容姿に不満を感じている人がどれだけ「可愛い」「かっこいい」と言われたがっているか、そこのところは実際には本人にしかわかりません。それでも、それを見極めて一番ほしい言葉を与えれる人がいたなら、きっといともたやすくその人の心の中に入れるでしょう。
漫画の中にはポーカーとか麻雀とか競馬とか殺人鬼とかが出てきますが、作者の福本先生は特別それについて詳しいわけでないそうです。まあ殺人鬼の心理に関して詳しくても普通に考えたらただの危ない人なんですけど。そういう話は置いといて、素人の方がプロよりうまく書けることは意外とあります。
僕はもうずっと麻雀をやり続けているので、逆に麻雀を知らない人に対して説明するとき、どこから説明すればいいのかよくわかりません。日頃も麻雀を知っている人としか麻雀の話をしないので前提は常に共有されています。それは共通の理解がもたらす楽しさや面白さでしかありません。
カイジとかもそうですけど、福本漫画はおおよそ心理的なやりとりがメインと言っても問題ないと思います。もちろん、対人のギャンブルというのは全て心理的駆け引きの要素がありますが、その心理的要素をいかに面白く見せるかにこだわったのが銀と金です。ポーカーなんかろくにわからなくてもいい、そこに金というわかりやすい目に見える価値を置いて、心理的なやりとりで勝負のヒリつきや勝ち負けの興奮などのギャンブルの醍醐味を味わわせる。
麻雀を知らない人に役満のすごさを説明するのは意外と難しいし、それが成立するかしないかの微妙な部分はもっとわかりにくい。でも、あと一枚が出れば一兆円と言われれば誰でもすごさがわかる。そうやって少しでもうまく読者に読ませる、そういうのがちゃんとできてるんですよね。
主人公は貧しいフリーター生活で友人もろくにいないひとりぼっち。たまの競馬で金をスってはイライラするだけ。そんな状態から億単位の金が動き、悪人がはびこる、人間の欲望の世界に入る。漫画が発表された当時より、世の中に閉塞感を覚えている今の人たちの方が刺さるんじゃないかって思います。
世の中は悪人だらけで、金だけが正義で、正しさなんてものは誰かの都合にしかすぎなくて、それでも僕らはあがきながら現実の中で生きている。
夢を見ろ…!
人が生きるってことは夢を見るってことだぜ
それを見なくなったら死人だ……
たとえどうやっても叶わないような夢でも、現実の腐れ具合に心が折れそうになっても、一人でひっそりと夢を腹のなかに抱えているのが大事かなって。まわりに誰もいなかったとしても、否定され続けて自分を見失っても、ただ一つ夢だけあれば自分を生かしてくれる。そう考えれば、甘ったるくても夢を見るのはやめられないですね。
常識に囚われる
時間がないとかよりも精神的余裕がなくて、さっぱり書けませんでした。
ゲームの話は現状の説明みたいなのをだらだら書いていればいつの間にか記事になってて、個人的にはすごい楽なんですけど、本の雑感みたいなのはそこそこ考えること多くて精神的余裕がないとなんかうまく書けないんですよね。多分熱意がほとんど感じられない文書になりそうなので、余裕あるときに読み返しながらしっかり書きたいです。
人と暮らしていると必ず価値観がぶつかることってあると思うんですが、みなさんはそういうときにどうしていますか。
最近はわりと他人のことなんかどうでもいいと思っていて、だから考え方が違ってもそれに対して何か言ったりする必要もないかなと基本的には思ってて。簡単にいえば他人に興味がないって話なんですけど。でも、全ての人に対して興味がないわけじゃないんですよね。
日常で付き合いがある人はやはりそれなりの配慮が必要になるし、友達や家族などはなおさらその傾向が強いと思います。誰かれ構わず「お前の意見や考え方に興味がないから好きにすれば」なんて言っていたら、たぶんすぐにひとりぼっちです。それはそれで悪くないとは思うというか、それでもまぁ十分に生活はできます。
でも、そうじゃない人の方が多いだろうと思いますが、そうなると考え方がぶつかったとき、価値観のすり合わせ、みたいなものが必要になります。お互いの考え方の違いを確認して、たまには尖った部分を折り曲げたりして、両方が納得できる形にする。それはコミュニケーションで普通に行われていて、なおかつとても大事なことだと思います。
ただ、ここで面倒なのは「常識」というものです。正直に言って僕は常識という言葉があまり好きじゃないです。大概の場合、常識という言葉を発するときには、自分の世界を基準に考えていて、「常識的に言えば」なんてのは極端に言えば「自分にとって正しいのはこれで、だからお前の言ってることは間違ってる」くらいの意味だと思います。お互いの理解を求めてるはずなのに、相手の否定から始まるのコミュニケーションとして最悪じゃないですか?
人はどうしても自分の世界を基準に考えがちで、長く生きれば生きるほどその世界に囚われてしまって、違う考え方を受け入れられなくなる。これは自戒でもあるけど、話し合いの中でそれは価値観の違いだからどうしょうもないって口にしてしまうのは本当は良くないですよね。それが本当に相手の価値観を認めてお互いの理解に繋がるものならばいいけど、歩み寄りや理解の放棄としてそれを言ってしまうのはやはり避けないといけないかなと思います。
全ての枠組みは壊されるべきものであって、常識も個人の考え方の枠組みでしかないわけで、いつだって理解できないものを理解しようとする努力はやめてはいけないですね。
それでも、きっと余裕がないときは、「価値観の違いだからどうしょうもないね」って言いながら諦めてしまうんだろうなって、そう僕は確信しています。逃げる方が楽だからね、それは仕方ないよね。