常識に囚われる
時間がないとかよりも精神的余裕がなくて、さっぱり書けませんでした。
ゲームの話は現状の説明みたいなのをだらだら書いていればいつの間にか記事になってて、個人的にはすごい楽なんですけど、本の雑感みたいなのはそこそこ考えること多くて精神的余裕がないとなんかうまく書けないんですよね。多分熱意がほとんど感じられない文書になりそうなので、余裕あるときに読み返しながらしっかり書きたいです。
人と暮らしていると必ず価値観がぶつかることってあると思うんですが、みなさんはそういうときにどうしていますか。
最近はわりと他人のことなんかどうでもいいと思っていて、だから考え方が違ってもそれに対して何か言ったりする必要もないかなと基本的には思ってて。簡単にいえば他人に興味がないって話なんですけど。でも、全ての人に対して興味がないわけじゃないんですよね。
日常で付き合いがある人はやはりそれなりの配慮が必要になるし、友達や家族などはなおさらその傾向が強いと思います。誰かれ構わず「お前の意見や考え方に興味がないから好きにすれば」なんて言っていたら、たぶんすぐにひとりぼっちです。それはそれで悪くないとは思うというか、それでもまぁ十分に生活はできます。
でも、そうじゃない人の方が多いだろうと思いますが、そうなると考え方がぶつかったとき、価値観のすり合わせ、みたいなものが必要になります。お互いの考え方の違いを確認して、たまには尖った部分を折り曲げたりして、両方が納得できる形にする。それはコミュニケーションで普通に行われていて、なおかつとても大事なことだと思います。
ただ、ここで面倒なのは「常識」というものです。正直に言って僕は常識という言葉があまり好きじゃないです。大概の場合、常識という言葉を発するときには、自分の世界を基準に考えていて、「常識的に言えば」なんてのは極端に言えば「自分にとって正しいのはこれで、だからお前の言ってることは間違ってる」くらいの意味だと思います。お互いの理解を求めてるはずなのに、相手の否定から始まるのコミュニケーションとして最悪じゃないですか?
人はどうしても自分の世界を基準に考えがちで、長く生きれば生きるほどその世界に囚われてしまって、違う考え方を受け入れられなくなる。これは自戒でもあるけど、話し合いの中でそれは価値観の違いだからどうしょうもないって口にしてしまうのは本当は良くないですよね。それが本当に相手の価値観を認めてお互いの理解に繋がるものならばいいけど、歩み寄りや理解の放棄としてそれを言ってしまうのはやはり避けないといけないかなと思います。
全ての枠組みは壊されるべきものであって、常識も個人の考え方の枠組みでしかないわけで、いつだって理解できないものを理解しようとする努力はやめてはいけないですね。
それでも、きっと余裕がないときは、「価値観の違いだからどうしょうもないね」って言いながら諦めてしまうんだろうなって、そう僕は確信しています。逃げる方が楽だからね、それは仕方ないよね。
タイトルについて
単語なのか文章なのか、それが問題かなと。
これは僕が今ブログを書いているときのはてなブログのトップページなんですけど、ブログのタイトルってやっぱりそれなりの長さがあるんですよね。ランキングとかを見ると特に顕著だと思います。
最近のネットニュースやまとめサイトとかもわりと長めの文章のタイトル、それも煽り気味のものをつけて読ませようという傾向が強い気がしますね。集客としてはとても正しいと思います。
雑誌とかだと見出しがあって、リードがあってとか色々あるんですけど、ネット記事の場合はタイトルがキャッチとして全てを担うことになってて、その影響で長さを持った説明的な文章になりやすくなってるのかなと。
例えば、僕は現状ブログの記事のタイトルがとても短いんですけど、これは本当のことを言えば人を呼び寄せる点では間違ってるんですよね。何か本を読んでその感想を書くとして、本のタイトルしか書いてなかったら、その本を知ってる人とそのブログを読んでる人しか読まないわけですよ。もともとそのブログを知らない、その本も知らない人が興味を惹かれて読んでみようかなって思うためにはタイトルはそれなりのキャッチ性がある文章でなければいけない。ここらへん、ネットのライターとかは多分かなり気にしてるはずだと思います。「〇〇してはいけない5つの理由」みたいなタイトルが溢れてるのもそのせいだと思います。否定と数字での印象付け、分かりやすいですよね。
ただ、本の紹介の場合はやっぱりタイトルを入れたいかなって思うんですよね。これは検索を意識した場合とかに特に大きいのと、パッと見で内容が分かりやすいのがいいなぁと。で、それを考えると、説明の一文と本のタイトルをまとめて記事のタイトルにするのがいいよねって話になるんだけど、それだと長くなりやすいのと個人的にはあんまりかっこよくないなぁと思って迷ってます。作品を読んだことのある人を意識するのか読んだことのない人を意識するのかがポイントかもしれないですね。
そのうちタイトルのつけ方が変わってたら、この記事を思い出してくれると少しだけ嬉しいかなと思います。まぁ、何事も実験ですかね。
一ヶ月メモ
別に大したことは何もないです。
一応ブログを初めて一ヶ月らしくて、振り返りのメモを残そうかなと思った。といっても、書く頻度はわりと適当というか随分バラバラで結構間が空くこともあって、本当はもう少し書くつもりだったような気もする。
アクセス解析を見てたんですけど、開設初日が完全に飛び抜けててもう笑うしかないんですよね。そのうちこの数字を超えたいなとは思うけど、さていつになったら達成できるのやら。
ついでにゼタの元カレ団で検索すると三番目に出てくるっていうね。桶狭間の時は僕はまだ元カレ団にいなかったし、みつばさんはもう消えたしで、個人的にはなかなか味わい深い検索結果です。
ブログを書いていると昔mixiで長文日記を書いていた黒歴史を思い出すんですが、書いていた当時は何も思わなかったはずだし、このブログも今普通に書いていてもそのうち思い出すのも辛い何かになるのかもしれません。それでも文章を書くこと自体はそれなりに楽しくて、星がつけばちょっと嬉しい、そんなことを考えながらだらだらとブログを書いていくんだろうな、とは思います。
この前のクズの本懐の記事とか多分書くのに1時間くらいかかってそうなんですけど、お金が出るわけでもないのにそれだけの時間費やして、しかも2000文字も文章書いてるのってすごくないですか。どういう思考回路してるんでしょうかね、多分楽しいと思ってやってるんでしょうけど。
1人でも10人でも読んでくれる誰かのために、とかっこいいこと言いながら、ただただ自己満足と承認欲求のためにブログを書く。僕はそれくらいでちょうどいいのかなって思ってます。
クズの本懐
僕にとってはあまりにも好きすぎてもはやまともな評価ができなくなっている作品ですね。
さて、気がついている人も多いとは思いますが、クズの本懐の1話ごとのタイトルは全て実在の曲名になっています。第1話の『望み叶え給え』は筋肉少女帯、最終話の『2人のストーリー』はYUKIなどですね。きっとそれぞれの曲を聴いた後に、もう一度マンガを読み直すと違った感覚がすると思うのですが、現状その時間を取れてないのでそのうちやりたいとは思います。単純に知らない曲も多いので興味は尽きないですね。
ところで、クズの本懐ってなんでしょう。本懐っていうのは本来の願いという意味ですが、クズの願いってどういうものでしょうかね。
最終話において、主人公である麦と花火は離れることを選びます。そのときに出てくる表現は、「私たちは本物を探している」。二人は間違いなく想い合っていたのに、それは本物ではなく偽物だった、本物を探しに行くんだ、と終わるわけですね。
つまり、この作品のスタンスとしては、茜先生とお兄ちゃんが本物で麦と花火は偽物、ということ。たとえ本当にお互いを好きだったとしても、代替から始まった偽物でしかないわけです。偽物の恋愛をしていたクズが、本物の恋愛を探しに行く、それがクズの本懐と捉えられるわけですね。
この認識が合っているかは分かりませんが、こう考えると話自体はとてもシンプル。クズな自分を変えてくれる、運命の相手との本物の恋愛を探す、それがこの物語です。
実際、すごくありふれた話なのかもしれません。どこにでもあるような、恋愛のお話。じゃあ、この作品の特徴はどこにあるのか。
物語として恋愛を書くと、なぜだか極端になることが多いです。一から十まで綺麗でどこか夢物語のような恋愛か、ひたすらにドロドロしていて闇が詰まったような恋愛か。
でも、クズの本懐は現実にあるドロドロした部分を描きながら、恋愛自体は綺麗なものとして描いているし着地させている。特に麦なんて、茜先生とデートしてセックスして振られて、最後に「弱いあなたが好きでした、一生忘れません」だなんて、こんな綺麗な終わり方もないと思うんですよね。この作品、不思議なことに失恋した人がほとんど引きずってないんですよ。現実だったら茜さんはどこかで刺されるかボロ雑巾みたいに捨てられてもおかしくないし、花火は言いくるめられて処女を失っているに違いないと思うんですけど、茜さんは刺されないで結婚して幸せになってるし、花火はなぜか最後まで処女のまま。こんな綺麗な恋愛は現実にないでしょ。でも、このバランスが作品としては良かったと思うんですよね。クズたちのキラキラした青春なんですよ、これは。
クズと言っているわりに、彼らはとことんまでクズなわけではない。普通に考えたら麦がモカを抱いてないのはおかしいじゃないですか。作中で最後までしてるのは中学の先輩と茜先生だけ。どこがクズなんだって話ですよ。本当のクズだったらモカは抱かれた喜びにボロボロになりながら麦を想い続ける、みたいな展開はいくらでもあってもいい。花火はお兄ちゃんに振られて自棄になってナンパされた相手に処女を失って、それを知った麦にめちゃくちゃにされる、みたいな展開もおかしくない。いや、まぁ僕の認識が歪んでるのはまったくもって否定しないんですが。
ここらへん、この作品はすごく綺麗に終わらせるんですよね。終わりよければ全てよしじゃないけど、途中までのドロドロのわりに最後の方は勝手に浄化されて「ああ、よかった、幸せになってほしい」みたいな感想が許されてしまう。すこしだけ飛躍がないわけではないけど、失恋してる人の方が多いのにハッピーエンドに見える不思議。
だから、受け入れやすかったのかなと思う。たとえば『あそびあい』も僕はすごい好きだけど、あれはあまり一般受けしないと思うんですよ。だって綺麗じゃないから。あれも確かに現実だけど、ある種突き抜けているから一部にしか受け入れられない。クズの本懐はそこ上手く考えてあるなと。
人を殺すって言われるものはたくさんあって、好奇心とか退屈とか他にもあるけど、僕は寂しさが大きいかなって思う。人は人のぬくもりを求めずにはいられなくて、だからこそ、どんな振る舞いをしても欲しい人を手に入れたくて仕方がないんだ。運命は必ずどこかにあって、君だけの本物が君を変えてくれるに違いない。
ちなみにこの作品、僕は本当に本当の最後まで花火が好きなつもりでいたんだけど、アニメを最後まで見たら急に茜先生が好きなことを自覚してしまった。
思い出したんだよ、僕は『モテキ』の小宮山夏樹が好きだったこと。何考えてるかわかんなくて、振り回されてばっかりで、でも気まぐれで自分の相手をしてくれるような人。
全然手に入らなそうで、だからこそ自分にとって特別で、もし、その手を掴めるのなら、自分が特別な人間になれるような気がしてた。
僕はもともとフジくんで、それから麦になって、それからずっと届きそうで届かない特別を追い求めてた。
この作品を読んで他の人がどんな感想を得るのかは分からないけど、恋愛って楽しいよ、クズって楽しいよ。
だって、そこには人を変えてしまうものが本当にたくさん詰まっているのだから。
ゆびさきミルクティー
限りなく透明でささやかだったはずのストーリー
読むと性癖がいい感じに歪みます。
青年マンガらしくない絵柄にもかからわず、中身はフェチがひたすらに詰まっている作品。女装好きで女装した自分を好きになる主人公や中学生にして「私は○○くん(主人公)のオモチャ」と言い切ってしまうヒロイン、元ブラコンの黒髪メガネ優等生ヒロインにブラコンで中年好きの主人公の姉と登場人物が属性ゴリゴリでとにかく濃い。さらに同性愛と近親愛の要素を入れてかき混ぜているので、ミルクティーってそんなドロドロしてたっけ?と思いたくなるところ。
主な登場人物が高校生ということもあり、ほとんどみな、うまく自己を確立できていない。誰かの真似をしたり、求められる自分を演じたり、他人からの視線を理解できなかったり。きっと、誰しも同じような時期があったはずで見てるだけで痛々しい、苦しくなるような、そんな物語。
この作品を読んだときにひどく納得したのは、主人公が女装した自分を好きになる理由だ。おおよそのところ、男性向けの作品を書くのは男が多いし、女性向けの作品を書くのは女が多い。それはとても簡単な話で、同性のほうが好みを理解しやすいというそれだけの話だ。男のほうが男から見たときにどんな女がそそるのかよくわかるのだ。つまり、女装した男の方が男にとって理想の女を演じやすい。そして、自分の好みを一番理解しているのが自分であるならば……女装した自分が、自分にとって理想の女になってしまってもなにもおかしくないのだろう。
僕自身は一度だって女装したことはないけれど、女装した人が外に出たくなる気持ちや女装した自分の写真を撮りたくなる気持ちはとても理解できた。あまり筋肉をつけたくないから女装のためにサッカー部をやめ、日焼けしないように日傘をさす。その情熱はきっとどんなことにも共通するはずのものだ。そのとき、自分にとって一番大切なもののためなら人は他のもの全てを捨てられる。別に他人がどう思おうとかまわない、大切なものは自分だけが理解できればいい、自分が納得いくまでやるだけなのだから。
いつか熱が冷めるのかもしれない、周囲との折り合いでやめてしまうのかもしれない。でも、そのときそのとき、自分が一番大切だと思っていたことを忘れてしまうのは少し寂しいような気もする。
さて、年下の幼馴染みと隠れた隠れた魅力を持った同級生、あなたはどちらを選びますか?
それとも、自分の理想の女性を追い求めて女装を続けますか?
86 ーエイティシックスー
ガーターベルトっていいですよね、発明した人に最大限の賞賛を送ってもいいと思います。あんなえっちなもの思いつくのは天才ですよ。
第23回電撃小説大賞大賞受賞作。
メカとボーイミーツガールとディストピア。あとがきにこう説明されるわけだけど、間違いはないだろう。この作品は、とにかく設定がうまい。機械の帝国に敗北する人間たち。人種差別を行わずにはいられない人間の醜さ。そして、伏線の張り方が綺麗だ。だから違和感なく最後まで読み進められるし、しっかりとひっくり返される。
僕は、屁理屈みたいな理屈と言葉遊びが好きだ。描写は少し長いくらいでいいし、詭弁のようか物言いが面白いと思う。無口で冷徹でどこか壊れたような少年と世間知らずでお人好しで甘さが目立つ少女。腐りきった愚かな大人。みんながみんなうまく絡み合って、それだからこそ会話が心地よく感じられる。
絶望と希望は表裏一体。使い古された、よくある言葉だけど、しっかり納得できるんじゃないかな。最高の死に様を迎えるために、最後まで諦めないで生きる美しさ。僕は熱い人間が見せる冷めた部分より、冷めた人間が見せる熱い部分の方が好きなんだけど、さてみなさんはどうだろうか。
あんまりネタバレになるのももったい無いので、深くは語らないけど、しっかりハッピーエンドだから安心して読んで欲しい。成長はいつだって素晴らしいものだ。それが泥に塗れ、血に濡れ、痛みを伴うものならば、なおさら素晴らしいと思う。