クズの本懐


そのぬくもりに用がある

 

僕にとってはあまりにも好きすぎてもはやまともな評価ができなくなっている作品ですね。

 

さて、気がついている人も多いとは思いますが、クズの本懐の1話ごとのタイトルは全て実在の曲名になっています。第1話の『望み叶え給え』は筋肉少女帯、最終話の『2人のストーリー』はYUKIなどですね。きっとそれぞれの曲を聴いた後に、もう一度マンガを読み直すと違った感覚がすると思うのですが、現状その時間を取れてないのでそのうちやりたいとは思います。単純に知らない曲も多いので興味は尽きないですね。

 

ところで、クズの本懐ってなんでしょう。本懐っていうのは本来の願いという意味ですが、クズの願いってどういうものでしょうかね。

 

最終話において、主人公である麦と花火は離れることを選びます。そのときに出てくる表現は、「私たちは本物を探している」。二人は間違いなく想い合っていたのに、それは本物ではなく偽物だった、本物を探しに行くんだ、と終わるわけですね。

 

つまり、この作品のスタンスとしては、茜先生とお兄ちゃんが本物で麦と花火は偽物、ということ。たとえ本当にお互いを好きだったとしても、代替から始まった偽物でしかないわけです。偽物の恋愛をしていたクズが、本物の恋愛を探しに行く、それがクズの本懐と捉えられるわけですね。

 

この認識が合っているかは分かりませんが、こう考えると話自体はとてもシンプル。クズな自分を変えてくれる、運命の相手との本物の恋愛を探す、それがこの物語です。

 

実際、すごくありふれた話なのかもしれません。どこにでもあるような、恋愛のお話。じゃあ、この作品の特徴はどこにあるのか。

 

物語として恋愛を書くと、なぜだか極端になることが多いです。一から十まで綺麗でどこか夢物語のような恋愛か、ひたすらにドロドロしていて闇が詰まったような恋愛か。

 

でも、クズの本懐は現実にあるドロドロした部分を描きながら、恋愛自体は綺麗なものとして描いているし着地させている。特に麦なんて、茜先生とデートしてセックスして振られて、最後に「弱いあなたが好きでした、一生忘れません」だなんて、こんな綺麗な終わり方もないと思うんですよね。この作品、不思議なことに失恋した人がほとんど引きずってないんですよ。現実だったら茜さんはどこかで刺されるかボロ雑巾みたいに捨てられてもおかしくないし、花火は言いくるめられて処女を失っているに違いないと思うんですけど、茜さんは刺されないで結婚して幸せになってるし、花火はなぜか最後まで処女のまま。こんな綺麗な恋愛は現実にないでしょ。でも、このバランスが作品としては良かったと思うんですよね。クズたちのキラキラした青春なんですよ、これは。

 

クズと言っているわりに、彼らはとことんまでクズなわけではない。普通に考えたら麦がモカを抱いてないのはおかしいじゃないですか。作中で最後までしてるのは中学の先輩と茜先生だけ。どこがクズなんだって話ですよ。本当のクズだったらモカは抱かれた喜びにボロボロになりながら麦を想い続ける、みたいな展開はいくらでもあってもいい。花火はお兄ちゃんに振られて自棄になってナンパされた相手に処女を失って、それを知った麦にめちゃくちゃにされる、みたいな展開もおかしくない。いや、まぁ僕の認識が歪んでるのはまったくもって否定しないんですが。

 

ここらへん、この作品はすごく綺麗に終わらせるんですよね。終わりよければ全てよしじゃないけど、途中までのドロドロのわりに最後の方は勝手に浄化されて「ああ、よかった、幸せになってほしい」みたいな感想が許されてしまう。すこしだけ飛躍がないわけではないけど、失恋してる人の方が多いのにハッピーエンドに見える不思議。

 

だから、受け入れやすかったのかなと思う。たとえば『あそびあい』も僕はすごい好きだけど、あれはあまり一般受けしないと思うんですよ。だって綺麗じゃないから。あれも確かに現実だけど、ある種突き抜けているから一部にしか受け入れられない。クズの本懐はそこ上手く考えてあるなと。

 

 

人を殺すって言われるものはたくさんあって、好奇心とか退屈とか他にもあるけど、僕は寂しさが大きいかなって思う。人は人のぬくもりを求めずにはいられなくて、だからこそ、どんな振る舞いをしても欲しい人を手に入れたくて仕方がないんだ。運命は必ずどこかにあって、君だけの本物が君を変えてくれるに違いない。

 

 

ちなみにこの作品、僕は本当に本当の最後まで花火が好きなつもりでいたんだけど、アニメを最後まで見たら急に茜先生が好きなことを自覚してしまった。

 

思い出したんだよ、僕は『モテキ』の小宮山夏樹が好きだったこと。何考えてるかわかんなくて、振り回されてばっかりで、でも気まぐれで自分の相手をしてくれるような人。

 

全然手に入らなそうで、だからこそ自分にとって特別で、もし、その手を掴めるのなら、自分が特別な人間になれるような気がしてた。

 

僕はもともとフジくんで、それから麦になって、それからずっと届きそうで届かない特別を追い求めてた。

 

 

この作品を読んで他の人がどんな感想を得るのかは分からないけど、恋愛って楽しいよ、クズって楽しいよ。

 

だって、そこには人を変えてしまうものが本当にたくさん詰まっているのだから。

水古戦場

えー明日から本戦なわけですが

 

とりあえずね、結構足りてないけど武器はまあまあなんとかなったわけですよ

 

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問題はキャラなんですよね

 

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アルタイルとリミカタいないのわりと致命的かなーという気がしてます。カトルいたら少しは話が変わるのかな。エリュシオンできないとか、リルル使えないとかも問題としてあって全体的に無い無い尽くしですね。

 

今回の目標は4勝と4万位かなーと一応考えてはいます。っていうか、朝起きなくていいってすごいですね。普段8時半に起きてるので古戦場の朝活はわりと辛かった。今回はのんびりやります。

ゆびさきミルクティー

ゆびさきミルクティー 1 (ジェッツコミックス)

 

限りなく透明でささやかだったはずのストーリー

 

読むと性癖がいい感じに歪みます。

 

青年マンガらしくない絵柄にもかからわず、中身はフェチがひたすらに詰まっている作品。女装好きで女装した自分を好きになる主人公や中学生にして「私は○○くん(主人公)のオモチャ」と言い切ってしまうヒロイン、元ブラコンの黒髪メガネ優等生ヒロインにブラコンで中年好きの主人公の姉と登場人物が属性ゴリゴリでとにかく濃い。さらに同性愛と近親愛の要素を入れてかき混ぜているので、ミルクティーってそんなドロドロしてたっけ?と思いたくなるところ。

 

主な登場人物が高校生ということもあり、ほとんどみな、うまく自己を確立できていない。誰かの真似をしたり、求められる自分を演じたり、他人からの視線を理解できなかったり。きっと、誰しも同じような時期があったはずで見てるだけで痛々しい、苦しくなるような、そんな物語。

 

この作品を読んだときにひどく納得したのは、主人公が女装した自分を好きになる理由だ。おおよそのところ、男性向けの作品を書くのは男が多いし、女性向けの作品を書くのは女が多い。それはとても簡単な話で、同性のほうが好みを理解しやすいというそれだけの話だ。男のほうが男から見たときにどんな女がそそるのかよくわかるのだ。つまり、女装した男の方が男にとって理想の女を演じやすい。そして、自分の好みを一番理解しているのが自分であるならば……女装した自分が、自分にとって理想の女になってしまってもなにもおかしくないのだろう。

 

僕自身は一度だって女装したことはないけれど、女装した人が外に出たくなる気持ちや女装した自分の写真を撮りたくなる気持ちはとても理解できた。あまり筋肉をつけたくないから女装のためにサッカー部をやめ、日焼けしないように日傘をさす。その情熱はきっとどんなことにも共通するはずのものだ。そのとき、自分にとって一番大切なもののためなら人は他のもの全てを捨てられる。別に他人がどう思おうとかまわない、大切なものは自分だけが理解できればいい、自分が納得いくまでやるだけなのだから。

 

いつか熱が冷めるのかもしれない、周囲との折り合いでやめてしまうのかもしれない。でも、そのときそのとき、自分が一番大切だと思っていたことを忘れてしまうのは少し寂しいような気もする。

 

さて、年下の幼馴染みと隠れた隠れた魅力を持った同級生、あなたはどちらを選びますか?

 

それとも、自分の理想の女性を追い求めて女装を続けますか?

 

86 ーエイティシックスー

86―エイティシックス― (電撃文庫)


ガーターベルトっていいですよね、発明した人に最大限の賞賛を送ってもいいと思います。あんなえっちなもの思いつくのは天才ですよ。

 

第23回電撃小説大賞大賞受賞作。

 

メカとボーイミーツガールとディストピア。あとがきにこう説明されるわけだけど、間違いはないだろう。この作品は、とにかく設定がうまい。機械の帝国に敗北する人間たち。人種差別を行わずにはいられない人間の醜さ。そして、伏線の張り方が綺麗だ。だから違和感なく最後まで読み進められるし、しっかりとひっくり返される。

 

僕は、屁理屈みたいな理屈と言葉遊びが好きだ。描写は少し長いくらいでいいし、詭弁のようか物言いが面白いと思う。無口で冷徹でどこか壊れたような少年と世間知らずでお人好しで甘さが目立つ少女。腐りきった愚かな大人。みんながみんなうまく絡み合って、それだからこそ会話が心地よく感じられる。

 

絶望と希望は表裏一体。使い古された、よくある言葉だけど、しっかり納得できるんじゃないかな。最高の死に様を迎えるために、最後まで諦めないで生きる美しさ。僕は熱い人間が見せる冷めた部分より、冷めた人間が見せる熱い部分の方が好きなんだけど、さてみなさんはどうだろうか。

 

あんまりネタバレになるのももったい無いので、深くは語らないけど、しっかりハッピーエンドだから安心して読んで欲しい。成長はいつだって素晴らしいものだ。それが泥に塗れ、血に濡れ、痛みを伴うものならば、なおさら素晴らしいと思う。

騎空団を移籍しました

元カレ団を退団し、ファーレンハイトに入団しました。

 

通算で5つ目の騎空団ですね。前回の移籍はシードからノーシードでしたが、今回はシードシードからノーシードというなかなかのもの。次はどうなるんでしょうか。

 

元カレ団を抜けたのは、簡単に言えば、思い入れが強すぎたということに尽きます。本当は細かい色々が合わさっているけど、それを説明するのはなんかいまいちな気がするのでとくには言いません。在籍中は52勝3敗とか?大変お世話になりました。

 

新しい団はファーレンハイトなんですが、これは銀英伝なのかそれとも別の何かなんですかね?実は華氏ですとか言われたら、多分どうやって反応すればいいのか分からないと思う。でも、語感優先で深く考えずに決めてそう。めちゃくちゃ失礼だけど。

 

今回の団活はツイッターグラブル団員募集掲示板でやってたんですけど、ツイッターで声をかけてくれたのが一人、掲示板で声をかけてくれたのが九人とまぁ驚くほど差が出ました。多分市場の問題なんだけど、掲示板ではポエムのことを書かなかったのでそのせいかもしれません。たぶんそう。

 

最後に自分の装備状況を一応載せておこうと思います。このブログを読んでるかもしれない団員と後で自分が成長を知るために。

 

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言葉とかいう不完全なもの

最近とある人と話して、自分の中で色々思ったこと。

 

他人に何かを伝えたいと思ったとき、言葉で伝えるというのは意外と難しい。いくら言葉を尽くしても何か足りない気がするし、誤解を恐れて言葉を選ぶと本当に伝えたかったことが伝わらない気がする。かといって、言葉以外に何があるのかと言われれば、僕は適切な方法が思い浮かばない。

 

そもそも、言葉というものはひどく不便だ。お互いが同じ言葉を使えないと内容が伝わらないし、言葉にならない、なんて言葉がある時点で説明しきれないことがあることを認めてる。髪の毛を説明するのに「ゆるく三つ編みにした長い髪をうなじの上で巻き上げてまとめている」なんて言われたところで理解するのに何分かかるかわからないし、「濡れ羽色」とか言われたところで疑問符が絶えないだろう。

 

不思議なことだが、言葉で説明されるとき、僕らは本当には理解できていなくても、なぜかなんとなく理解したものとして通り過ぎてしまう。「濡れ羽色」という言葉を与えられたら、あぁ、そういう色なんだ、と次に進んでしまう。自分ではまったく説明できないままに。

 

写真を与えられば、みんなが同じものを目にするはずだ。それに対する印象は異なっても、同じ写真を目にしているということは、同じものが伝わっているはずだ。でも、言葉では伝わらない。同じ言葉を使っていても同じものが伝わらない。

 

考えてみると、言葉は五感ではない。音は五感だけど、音を聞いて言葉として理解するのは別の話だ。見ることは五感だけど、見て文字として認識するのは別の話だ。つまり、言葉を認識するのというのは五感に比べれば、はるかに遅いのだ。

 

必要不要に関わらず、間の工程が一つでも多ければ、変化の可能性が増える。言葉は前提として、そのまま伝わらない可能性を孕んでいる。それなのに、なぜ僕らはこうも言葉で伝えようとするのだろうか。

 

難しいことは分からないけど、こんなにだらだらと文章を書いている時点で、僕が言葉で表現するのが好きなのは間違いないし、その不完全さを含めて言葉を愛そうと思う。伝わりそうで伝わらない何かを表現しようと、少しでも言葉をこねくり回しながら。

賭博師は祈らない

賭博師は祈らない (電撃文庫)


第23回電撃小説大賞《金賞》受賞作。

 

ところで、ギャンブルと聞いたときにどんなイメージを思い浮かべるだろうか。

熱狂、夢、敗北、運……

僕は、最後の一瞬になるまで分からない状態と、その後に生み出されるたった一つの結果、それがギャンブルらしさなんじゃないかと思う。例えばそれは、競馬で二頭が競り合いながらゴールラインを駆け抜ける瞬間とか、ポーカーでリバーの一枚が開けられる瞬間とか。

 

パチンコもスロットもギャンブルだけど、懸けるレートの問題ではなく、身を焦がすような熱はそこにはないような気がする。そりゃ借金してやれば、そこそこ刺激的にはなるんだろうけど。だって、あれは人間が作り上げた射幸心だ。神様が作り出した運の物語に勝てなくたって仕方ない。

 

さて、この作品は十八世紀末のイギリスの文化を基にした作品だ。色々なギャンブルが生まれ広まったころ。一人の賭博師と一人の奴隷の少女の物語。

 

「どうでもいい」が口癖の賭博師が奴隷の少女と出会って少しずつ変化していく、と書くのは簡単だけど、それじゃあなんも面白くないし本を読めば分かることだ。だから、ここに書くのは少し違う話。

 

賭博師という職業はギャンブルで生計を立てる、ということだ。そもそも、ギャンブルで勝ち続けられるのかと言えば、それ自体は不可能ではない。胴元ではなく、他の客と勝負をすればいいだけだ。そこにあるのは運と実力の世界。 運の要素がどんなに大きくても、実力の要素があるのならば、その積み重ねが勝利と敗北を決める。要は自分より下手な奴を見つければいい。運で上下することはあってもいつかは必ず勝てるし、そこで勝負を終えればいい。

 

この主人公だって基本的にはそうだ。生きてくために必要なのは「負けないこと」、そして稼ぎ続けるために必要なのは目立たないこと。そのために必要なのが「勝たないこと」。ギャンブルは仕事にした瞬間に熱が失われる。そこに感情の起伏はいらない。機械のように同じことを続ければいい。それが間違いのない正解。

 

じゃあ、ギャンブルが熱を持つために必要なのは何か、それでやっと話が最初に戻る。それが熱狂だ。ギャンブルは熱があるから面白い、人と人がお互いの熱をぶつけ合う瞬間が何よりも刺激的だ。ただ、お互いが熱をぶつけるためには、冷静ではいられない。いつだって、最高のギャンブルは狂気の先にある。

 

ギャンブルにはイカサマがつきものだ。でも、イカサマは冷静じゃなくては行えない。つまり、イカサマがある状態ではギャンブルの面白さは出ない。イカサマが崩れてお互いの思惑を外れたとき、理性を狂気が超えて物事が手の届かない場所に行ったとき、やっと突き抜けた興奮を味わえる。

 

人はいつだって、物事が自分の手を離れてどうにもならなくなったら神に祈るしかない。なすがままに与えられる結末を受け入れるだけだ。それでも、ギャンブルなんて論理的に正しくない行為をして、自ら狂気の先に踏み込んで行くのならば、それは神に祈るなんてことをしてはいけない。最後まで自分で責任を取るしかない。そうやって、この作品のタイトルに繋がっていく。

 

ギャンブルなんてまったくもって人に勧めるものではないけど、ギャンブラーの精神性自体はものすごくカッコいいんじゃないかって、まぁ僕は思うわけですよ。

 

ギャンブルなんてまったくわからなくて、人間模様の話として読んでも十分面白いけど、僕自身は一人でもギャンブルに脳味噌焼かれた仲間が増えると嬉しい。知らなくていい刺激だけど、間違いなく病みつきになるから。